一応、麻布十番になるのかな。
二回目だけど、黒豚カレー南蛮やっぱ、うまし。
ヒルズなんて、高くて美味いか、
高くてフツーの店ばっかだから、
絶対、麻布十番で食べるべきだ。
替え玉みたいなこともできるから、
大食いのケニーロも満足でしょう。
ヒルズなんて、高くて美味いか、
高くてフツーの店ばっかだから、
絶対、麻布十番で食べるべきだ。
替え玉みたいなこともできるから、
大食いのケニーロも満足でしょう。
決して深刻な悩みではないが、平凡な日常に対する鬱屈は存在する。そのような緩やかな不満は多くの平均的な日本人が抱いているものだと思います。(中略)ほとんどの現代日本人の生活に激痛はない。しかしそこに鈍痛はあるわけです。(中略)『プラズマッ!』はそのような平均的日本人の鈍痛を描いた作品であると僕は感じました。
『プラズマッ!』の文体には真剣な雰囲気がなく、くだけていてふざけたような雰囲気が漂っているのですけれども、そのような真剣さ、深刻さの欠如こそトーキチが平均人としての幸福を既に得ていることの現れなわけです。古典的な文体を排したことは、願いが叶わない現実に対するトーキチの深刻な認識の欠落をよく表現するものとなっていると思います。もっとも僕がこだわりを持っている(持ちすぎて自縄自縛のきらもある)
軽く自殺する気になり、軽く自殺を止める、という感じで、「死」という巨大なテーマが軽い問題になっているような印象を受けます。ストーリーも単調で、小説『プラズマッ!』に比べて作品の広さも深みも欠けている感は否めないです。
時間にゆとりがあるためか、
三ヶ月ぶりに執筆に取りかかることが出来ました。
小説を書くようになってから五年くらい経ちますが、
今回からようやく
「自分のスタイル」みたいなものが見えてきた気がします。
それが他人に伝わるかどうかはまだ分かりませんが、
自分的にはかなり興奮しています。
また、今回、過去の自分の小説を読みなおしているのですが、
(もちろん、赤面and絶叫しながら)
ある時期は「読者モデル」に噛み付いてみたり、
ある時期は「郊外のファスト風土化」を憂いてみたり
ある時期は「軽薄な文体で、薄っぺらい事を書くのか、逆にリアル」だと思っていたり、
とまぁ、色々と施行錯誤をしているのだけれど、それがことごとく失敗していてガックシ。
理屈的にはあってるかもしれないが、小説としては間違ってる、というか。
全然、自分らしくない、というか。
今になって思えば、
「小説を書きたい!」という初期衝動が薄れていくにつれ、
それを理屈で埋めようとしていた=理屈で小説を書こうとしていた、のだと思います。
理屈なんて、大嫌いな性格なのに。
まぁ、とりあえず、
今回の軽井沢は、
自分にとっての小説のありかた
を考え直すいい機会になりそうです。
これからは
もっと直感的に、
もっと感覚的に、
もっとファンキーに作品を作っていきたいものだ、
そう願う深井デサルサでした。
土曜にはトキオに帰ります。
最後に、クレイジーケンバントの横山剣さんのブログより引用させて頂きます。
「CKB音楽制作の決まり」
まずは「直感」に任せてやる。
意味はあとから付いて来る。
だから、先に意味について考えたりはしない。
そうするといつの間にか楽曲様がヌルヌルっと出て来る。
あとはヌルヌルっと出て来た楽曲様の言いなりになれば、
ちゃんと着地すべきところに着地できるシステムとなっている。
歌詞は勝手に自分で考えてはいけない。
楽曲様の指し示すメロディーがそのままIDになっているので、
そのIDをブレなく解読し、歌詞として翻訳するのである。
ここで小賢しい勝手な解釈や、
釈迦に説法のような本末転倒があってはならない。
それをやるとたちまちに本質が飛散してしまい、
圧縮感がゼロの退屈な音楽になってしまう。
決して一発のインパクトなんかではなく、
漢方のようにあとからあとから効いてきて、
それが全身全霊に拡散し、全体を良い湯加減にて温める。
それが楽曲様、もといSOUL電波の本質なのであります。
いや、良くわからない。良くわからないんだけど、
そう考えた方がヤル氣が出るんですよ。